五木寛之さんが、アラカン年代の生き方として、以前に「下山の思想」という本を著していらしゃったと思います。私自身も、いけいけの青年期壮年期の登山世代の価値観一般常識ではない、むしろ、その逆の価値観の奥深さを、味わい深く感じております。「逆も又、真なり」というのでしょうか。一見、ダメな事こそが、いろんな事に案内してくれるのだなと感じております。
①「完全主義」から、「不完全と共に生きる。」へ、シフトチェンジ!!
ちょうどでなくなる事によって、自然と違う世界になります。例えば、若い時は、食欲もあり、時間に縛られる中での食事でしたので、味わってエレガントに食べるというのは、皆無でした。ひたすら、スコップや、ブルトーザーの勢いで、口の中に放り込むパン喰い競争状態だったのです。ところが、あまり、いっぱいは、入らなくなった?(*ホントかな?)今日このごろ、動作もゆっくりとなり、味わっていただくようになってきました。そして、よく噛んで食べるようになってきました。(*実は、ごっくんが上手くいくように)やっとこ、すこしは、エレガントに食べられるようになったかな!!自分も、周りもちょうどでなくなる事が、不完全を許し、不完全を受け入れ不完全を慈しみ不完全と共に生きる事、不条理を不条理のまま生きていく事、不完全の受容を体験してこそ、人生のフルコースを味わえることになるのかな~と、ぼんやりと感じております。
②若い方に対しては、「心配・保護・干渉・発信」から、「信頼・尊重・不干渉・受容」へ
シフトチェンジ!!
自分の壮年期の、若い方に対する対応方法のイメージそのままに、成長期を過ぎた若い方に対して、いつまでも、その方の力になってあげなければと、つい、心配したり、保護してあげたり、アドバイスを、上から目線で干渉・発信しようとする自分がおります。 自分の時代は、もう終わったのです。役目は、むしろ若い方を、「信頼し、尊重し、干渉せず、どんな時も受容する事」に変化していることに、気付くべきですね。だって、若い人なりに、最も自分に合った方法で、現実と折り合いを付けているはずですから。皆さん一生懸命生きていると思います。すべての人には、必ず貴い仏性と英知が秘められて、何が自分の心にとって良い事かは、知っているはずです。若い人の考えや対応や優しさは、さすがと、いつも感じております。
③あるべき姿(頭で考える一般常識・義務・理念)から、ありのままの姿(体の声・本音・好き嫌い・やりたい気持ち)へ、シフトチェンジ!!
自分の気持ちに正直に、生きていって良い時代になったのかなと感じております。無理して、望ましい一般常識の姿に、無理やり自分を合わせようとすると、その、無理は、必ず続きません。それは、つまり不自然な事だからでしょう。例えば、「退職後は、多くの知り合いや友達を作り、コミュニケーションを活発にする事が望ましい。」と理想の退職者の望ましいライフスタイルを聞けば、良い子の私はいろいろと、頑張ってその理想に近付こうとしました。60歳まで、ずーっと、あるべき姿に合わせよう、合わせようとしてきた気の小さいタイプでしたから。でも、途中で、何だか、くたびれてきました。「ねえ、本当にあなたは、多くの人とそんなに付き合うのが好きなの?」とめったに聞かない自分の本音に聞いてみました。そしたら、本音は正直に言いました。「実は、多くの人とは付き合いたくないの。基本的に社交的ではないし、人に気を遣いすぎるので疲れてしまうの。でも、本当に心から良いなと思った人とは、大切にお付き合いしたいと思うよ。でも、世間では、知り合いや友達多くないとよくないような雰囲気なので、無理して頑張ったの。」と言いました。
それから、健康情報で、「牛乳は、1日に1回はコップ1杯必ず飲んで、骨粗鬆症を予防しよう。」という望ましい一般常識のあるべき姿が提示されました。理想に合わせなければと思った私は、本音では「牛乳は飲みたくないなあ。」と感じていたのに、それを無視して根性で飲み干しました。結果は、お腹が、苦しい1日となってしまいました。まあ、体の声・本音を聞いて、心のままに、気なりに無理しない事が、自然なのかなと感じております。
④「あきらめない」から「キレイにあきらめる」にシフトチェンジ!!
私たちは、何事もあきらめないで頑張る事が良い事のように、教育されてきました。登山時代の青年期・壮年期では、仕事や目標達成のためには、あきらめないで頑張る事も必要でしょう。でも、退職後の下山の年代では、あきらめるという事は、実に大切な心構えだと実感しております。アンチエイジングまで頑張るのは無理があり、年齢をそのまま受け入れる安らぎに欠けるような気がします。この年代は、「諸行無常の理」を感じる事も多くなります。「あきらめなくてはいけない事もあるのだ。」という事実をさりげなくおおらかに受け入れられる人になりたいです。あくまで「そのあきらめなくてはいけない事」も、さりげなく軽めの表現が好みです。深刻に重い表現は野暮で粋ではありませんものね。
⑤「相手を変えよう。」から、「相手を変えない。」にシフトチェンジ!!
誰でも、自分の物差しで「こうあるべき!!」という風に、善悪や正義を定義付けていると思います。それこそが、唯一絶対の善・正義と信じこんでいますよね。でも、各々の体験や環境によって、その各人なりの善や正義の表現方法が違ってくるのは、当然の事だと思います。自分の思っている様な結末や表現方法で、相手が返してこなくても、「相手に何もあ望まずに、自分が良かれと思って行動する時こそが、心底楽しく心休まるのではないでしょうか。
⑥「攻める強さ。」から、「守る強さ。」にシフトチェンジ!!
相手を言い負かしても、虚しい気持ちが残るだけですよね。それよりも、相手や自分の良い箇所を尊重して、それを守るようにしたほうが、良い時を過ごせるのかな。と思っております。
⑦「欲しい物は、買えばよい!」のお勤め時代から、「欲しい物は、ある物を工夫して活用!」の年金時代にシフトチェンジ!!
ある程度、お金があったお勤め時代は、欲しければ買えば事足りていました。でも、今はお金も乏しい年金時代になりました。そこで、今まで使用しなかった物を、工夫して活用しています。なぜか、無駄使いしない清々しい気持ちになれましたよ!
⑧「料理を、朝と晩だけ作ればよかったお勤め時代」から、「料理を、朝・昼・晩と作る年金時代」
本音を言うと、料理が面倒な時も、実はありますよ。でも、それは、100%真実ではなくて、かたや、楽しい時も多いですよ。趣味とまでは言えるレヴェルではありませんが、おいいしい食事を作ろうと、夢中になっている時も多いです。子供の時、おままごとで、ご飯を作って、それを、食べてもらって嬉しかった記憶の延長でしょうか。それに、料理は認知症予防にもなると言いますしね!!
⑨「食事は、残さず食べましょう。」から、「食事は、無理せず残しましょう。」へシフトチェンジ!!
食が、だんだん細くなってきます。今までの価値観から、「もったいない。」や、「残してはいけない。」と頭で考えて無理して食べると、必ず体調を壊してしまいます。何よりも、体の声を聞いて食べ物は、無理しないで残すことですよね。自戒でした~。
⑩「いっきにやってしまいましょう!」から、「ソロリ ソロリと少しずつやりましょう!」へシフトチェンジ!!
「今日やる事は明日に伸ばす事なかれ」の教えのもと、若い頃は、多少無理をしても、「アクセル ゴー!」といっきにやってしまいました。でも、無理のきかないお年頃になったら、「今日やる事は明日に伸ばそう」と無理しないで「徐行運転で行こう!」と少しずつやりましょう。無理は、禁物ですよね。
⑪「週に1度の車での、まとめ買い物」から、「週に2~3度の自転車での、買い物」へシフトチェンジ!!
家人が、白内障になって車の免許証を返納しました。結果的に、車を運転できない私は、自転車で、近所のスーパーで、週に2~3回程度買い物を、する事になりました。その後の荷物整理などもあって、以前の様に、ブログ等の自分の時間が、あまりなくなりました。でも、これが、私の運動の時間と考えれば、プラスに進めますよね。私は、必然の用事でもなければ、わざわざの運動などできないタイプですので。。。曹洞宗の道元さんも、日常生活を一生懸命はたす事が大切とおっしゃってくださいますので、頑張りま~す。まあ、どなたもやっていらっしゃる事ですから。
*私は、子供の頃から、お年寄りが好きでした。昔の、お年よりは、自然の流れに逆らってまでの、アンチエイジングなどの力みも無くて、ごく自然に、「強さから弱さへ」「完全から不完全さへ」「勝つより負けるへ」「押すより引くへ」「与える愛から受けとめる愛へ」シフトチェンジしていた様な気がします。その姿が自然だったので、子供心にも、安らぎを感じたのだと思います。
ある年代まで年を重ねますと、「一般常識も、リアルに考えると、それって、本当かな?」と感じる事が、沢山あります。例えば、「与える事は、受ける事よりもとにかく良い事だ。」という常識ですが、与えられるほうの本音から言えば、頂けば嬉しい反面、「お返しをしなければ。」という気持ちの重さを感じるのも本当です。そして、喜んだ気持ちを表現して、与えてくれた方に伝えなければいけません。以上の事を面倒がらずに表現してくれる受け手の優しさがあってこそ、与える人が気分良くいられる訳です。それから「相手を褒めすぎる事」も「与える事」と同じく受け手に「期待に答えなければ。」という気持ちの重さを感じさせてしまいます。とにかく与えられる事は重い事ですので単純に「与える事はとにかく良い事だ。」と一般常識を信じこむのもリアルに現状を考察すればどうかな?と感じます。それから、「人様のお役に立つ事を何かやらなければ!」とことさらに意識してやっても、その気持ちが本人の内面の本音からかけ離れていれば無理があって続かないと思います。人は、自分の内面の持っている特性のままに、本音に正直に生きていれば、結果的に無意識のうちに、さまざまな喜びを与えていると思います。その存在だけで充分です。又、「長生きする事は、とにかく良い事だ。」という常識ですが、存在自体の様々な影響を多方面から考えますと、やりたいことをやったならば、ほどほどが良いのではないでしょうか。まあ、本人の本音に従って正直に楽しく生きるのがいいのかなと、感じております。すべては諸行無常の理の中、すべての事柄には、必ず終わりが来ます。その時とは、以前のようには運ばなくなった、つまりは無理が出てきたからこそ、その時が来たのだと、事態を受け入れるべきでしょう。「今までありがとう!!」と感謝の花束を対象に捧げながら!!とにかく、自然に逆らわない事、自然なありのままの姿が、一番大切ですよね!!
現代は、若さのみに価値があるという考えから、がんばって若い時の様にふるまうのを、あきらめない時代となりました。でも、それは、不自然な無理のある姿ではないでしょうか。
絵本の「葉っぱのフレディー」の様に、自然界のすべてが、諸行無常の循環の中に生きていると思います。だとすれば、明日の事は、思い煩わずに、良い事を探して、どんな状況でも、「かえって良いかも!」という風に感じながら歩っていきたいです。私は、歳をとるのを、悲しい事とも、劣った事とも捉えずに、淡々と笑顔で、さりげなくシフトチェンジした姿で歩ってゆきたいです。だって、その変化が、自然な姿なのですから。(以上、老女ポリアンナの良い事探しでした~チャン・チャ
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